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 インタビュー


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秘密の年の重ね方
■ 江戸・八丁堀・聞楽亭

父親は、寄席の亭主だったんですよ。八丁堀で。聞楽亭(ぶんらくてい)という。昭和20年(1945年)3月10日の大空襲で全部焼けちゃいました。

で、僕が今やっているバンド「ザ・聞楽亭」というのはね、うちの昔の名前なんです。 その寄席は、江戸時代、ひいおじいさんの前ぐらい、つまり5代前のご先祖様が始めたらしい。

当時ね、いわゆる講釈師がいて、表でもって、よしず張りで囲いをして、その、芝居小屋みたいなのを仮に建てたようなものの中で軍記物を色々聞かせるというのがあったそうで。そこへお客さんが入って、聞いて、お金も払っていくという。

それをご先祖様が見てて、こういうのを完全に小屋にしてやったらどうだろうってことでやり始めたらしいのね。

■ 女湯に刀掛け

その前は、お風呂屋さんをやってたんだって。八丁堀で。

その銭湯には、八丁堀だから、当然、与力同心が来たわけ。それで、一般の町人が入る前に、お役人がまず一番風呂を、朝から入る。そうするとね、男湯も女湯もみんな使っちゃうわけよ。お客さん入れないんだから。

ところが、みんな、ほら、武士で、刀差してるでしょ。だから、女湯にも刀を掛ける物が置いてある(笑)。

そういうことがあって、「寺があっても墓がない」とかね、“八丁堀の七不思議”っていうのがあるんだけど、「女湯に刀掛け」というのもその一つで、これがどうやら、その風呂屋から出た話らしいんだよ。

■ ルーツ

で、まあ、不思議な話なんですけど、元々は越後なのね。五十嵐っていう名前は。

燕三条ってあるでしょ。燕三条から海の方じゃなく山の方へずーっと行くと、車でおよそ40分くらいの所に川が流れてんですよ。それがね、五十嵐川っていうの。下田村。その川に沿った所に、五十嵐神社ってのがある。

で、まあ、そこに五十嵐小文治って人がいて、源頼朝の家来だった。力が強くて、ある宴会の時に、そばにあった石をバーッと投げたら、ま、こんなのは逸話だけれど、400メートル飛んだんだって(笑)。それで、杉の木にバーンとめり込んだ、根っこにね。その杉に木が今も残ってあるとかさ。

五十嵐って名前はそれしかないんで、だから、ずっと前に江戸に出てきたんでしょうね。

■ 寄席育ち

僕は5人兄弟で一番下。昭和7年(1933年)です。姉が3人、そして兄(武要-たけとし)。おふくろの36歳の時の子。

本当をいうと5人女だったんだ。その内の2人は小さいときに百日咳で死んじゃった。だから姉さん3人で、男の子が無かったところに兄貴ができた。

俺、ちっちゃい時はね、すごい素直だったらしいんだよ(笑)。兄貴の方がきかなかったね。しょっちゅう、なにかっていうと兄貴が怒られてたよ。だけど、兄貴がね、一番可愛がられてるわけよ。ずっと女で、男が生まれたんだから、僕が生まれるまでの2年間というものは。勿論俺で打ち止めで、だからオレは材料の余りっていわれてんだよ(笑)。

昭和になって、親父が、寄席に併設して小間物屋と玩具屋も始めた。だから、間口がねえ、10間以上になっちゃった。それを、全部で7、8人でやってた。

寄席の定員は103人て書いてあったなあ。人形町の末広にしても、大体そんなものだったですねえ。

小さい頃からカフェで

どうして寄席から西洋音楽(笑)にっていわれるけど、うちの親父が映画が好きで、兄貴と二人、小学校前からよく連れてってもらった。浅草まで。当時はやっぱり、バックミュージックでよく使われてたのがアメリカのモダンなねえ、あれなんですよ。考えてみると。

親父はね、レコードも結構持ってたなあ、ジャズのやつを。78回転のSP。それをね、兄貴とよく聞いてた。当時は勿論ジャズだか何だか分からないんだけど、にぎやかで楽しいのばっかり聞いてた。今聞くと、やっぱりジャズだね。

それと、もっとちっちゃい頃には、店の三軒先にカフェがあって、そこでしょっちゅう洋楽がかかってて、どういうわけだか、それが大好きだったらしい。いいのが流れると、こんなちっちゃいくせにね、そこに止まってて動かない(笑)。ミミっていうカフェなんだけど、今でも覚えてる。

小さい頃からやっぱりあるんだろうね。

■ チックを買いにきた客

兄貴は最初からドラムじゃなく、アコーディオンを習ってた。そのきっかけになったのは、兄貴が小学校の4、5年だったのかな、小間物屋を手伝ってて、チックを買いにきた男の人がいたの。で、兄貴が色々応対したらしいんだよ。ナマイキに(笑)

そしたら、それがすごくお客さんに気に入られちゃった。当時、参謀本部のねえ、地図を一手に引き受けてた麹町のでっかい出版社、大変なブルジョアの大ぼんぼんで。大磯に別荘があって、そこでアコーディオンなんかやったらしいんだ。そこへ兄貴が泊まりにいったりして、兄貴も教えてもらった。

小林さんていうんだけど、その人が戦後になってバンドを作った。アコーディオンが3台くらいあって、それからトランペットもいたりバイオリンもいたりっていうヘンなバンドだけど(笑)。で、兄貴がバンド・ボーイとして入った。

■ 落語家志望

でも僕は初めはね、講釈師になろうと思ってた。小学校1、2年ぐらいかなあ。そのあとは、落語家になりたいと思ってた(笑)。いまだにそう思ってんだけど、ライブの時はしゃべらない(笑)。

それはね、あのライブ、あいつがしゃべってんのがすごい面白いからって言って来る人がいるわけ。そうすると、じゃあ音楽じゃないのって(笑)僕はさあ、言いたくなっちゃうわけよ。

■ 東京大空襲

大宮の日進に集団疎開していて、中学入試のために3月6日に東京に帰ってきたら、その3日目が大空襲。兄貴は、そのとき大磯にいたの、小林さんの所。だから知らなかったわけ(笑)。

夜中、うちの中の防空壕に入ったら、段々うちの方まで焼けてきちゃった。危ないから八重洲通りの方にある防空壕に移ることになって、パッと表へ出たら夕焼け、完全に夕焼けみたいだった。その中をB17やB29が飛んでるわけ。中の乗組員がね、シルエットで見えた。いまだに焼きついている。強烈だった。

高射砲の破片がパラパラパラパラ落ちてくる中へ、僕とおふくろと二人で入った。ところが、そこも焼けてきちゃって、熱くていられない。だから向かい側の壕へ移ろうっていうんで、そこから出たら、もう風速がね、瞬間だと30メートル以上。トタンがパーっと飛んできたりして、それで死んじゃった人も目の前で見た。戦争は絶対ヤだね、もう。下町が全壊して12万人が死傷した。あんな怖い思いしたことない。

這って行って、ようやく壕に入った時、おふくろが「こっちがもし焼けたら、明要、お前もう死ぬからね」っていわれて、僕もあの時は立派だったね、「うん」と言ったもんね(笑)。

■ 神田山陽さん

焼け出されてからは、小林さんの麹町のうちや、おばさん(父の妹)の嫁ぎ先の福島の家にやっかいになることになった。

ここで今度は、講釈師でね、神田山陽さんてのが出てくるわけ。出てくるっちゃなんだけど(笑)。今の山陽さんじゃなくて、ついこないだ亡くなっちゃったけどもね。

その山陽さんというのが、これがまたどういうわけだか、やっぱり本屋さんなんだよ。本屋さんの大財閥の御曹司。

その人は、うちが聞楽亭やってる当時、パッカードで乗りつけてきて、運転手が白い手袋でね、こう、ドアを開けると中から出てきて、木戸銭を払って講談をずっと聞いているという、ご常連だった。

浜井さんていうんだけど、その人が30ぐらいの時に講釈師になりたいというんで先生について、初舞台が僕んちだった。

うちがどういうわけだか気に入って、うちにもずーっと住んでたし、非常にお金があるから、聞楽亭のスポンサーになってくれて、親戚付き合いみたいにしてたわけ。

葉山に別荘があって、焼け出された僕たち家族に、それを全部貸してくれたから、僕は葉山に住んで中学校に通ってた。

■ クラリネットを買う

戦後すぐ、兄貴はバンド・ボーイを続けている内に、「なんかやんない?」って言われ、「じゃあ、ドラムをやるかな」ってんでドラムをやりだしていた。

当時はね、タイコの人が遅れてきたとか病気だったりすると、お前が叩いてみろって、そういうのが修行だった。それにミュージシャンの人手が無かったんで、少々ヘタでも使ってくれたの。そういうことで段々うまくなる。

僕は丸の内ホテルのバンドでもってバンド・ボーイやってたんだけど、一人、テナーを吹いてる人がいた、サックスを。で、その人に非常に可愛がられて、「お前楽器やりたいか」って言うから、「やりたくてしょうがないけど、何をやろうか」って言ったら、「サックスフォーンやるか。じゃあ、最初はクラリネット買え」って、その人に連れられて横浜で、1500円のを買った。バンド・ボーイとして月々もらってたのは500円ぐらいだったかなあ。

兄貴はその頃、ウエスタン・ライナーズっていうバンドでタイコ叩いていて、僕に、うちのバンドを手伝えって言うんで、そこのバンド・ボーイになった。

そんで毎日、テキがステージに上がっていると、控え室でもって、楽器出しちゃあプカプカプカプカ吹いてた。

バンドの中では、アコーディオンの人が、ウエスタンばっかりでも詰んないと言い出して、バンドマスター(富山さん)が、いいよ、ジャズでもやろうって話になっていた。

その時に僕は「ローズルーム」とか2曲ぐらい吹けたのね。そうしたら、「お前吹かしてやる」ってんで、これが初舞台。というか、練習でね、時々吹かしてくれるわけ。客がいない時とかにね(笑)。

■ 植木等さん

ある時、東京駅で、バンドマスターに、「誰かクラリネットいないか」っていう人がいた。「うちのボーヤはちょっと吹けるよ」、「立っているだけでいいから、とにかく今日いないとマズイから貸してくれ」、「じゃあ、トシ坊、行ってこい」ということになって、銀座の歌舞伎座の隣で、エデンというキャバレーのダンスホールに行った。

そこのバンドのギターの人が植木等さんで、東京駅でマスターに声をかけてきた人。

「なんか吹ける?」、「1曲か2曲吹けますけど」、「おっ、じゃそれやろう」なんてやってくれて、「それからあとは適当でいいから、邪魔になんないように立っていてくれ」って言われて。デキシー編成(トロンボーン、トランペット、クラリネット、ギター、ベース、ドラム、ピアノ)なの。

嬉しくってしょうがないから、もう、なんでもかんでも吹いたりして。でも、あんまり文句言われなかったねえ。どういうわけだか。“耳一発”でなんかやってたんだろうねえ。よく分かんないけど。

■ サックスフォーンを吹く

そうしたら植木さんが、「富山さんに話しとくから、代わりが来るまで悪いが何日かいてくれ」、「ハイ、います」なんて。

で、しばらくしたら、また植木さんから、「君、もしよかったら、このままいるか?」っていう願ってもない話があって、ここにずっと。要するにそこは、初めての修行だよね。で、ラッパの人に色んなことを教わって、譜面の読み方も教わったりして2年くらいやった。

そこへ遊びにくる松下さんていう別のドラマーがいて、その人は当時、モダン・ジャズの仲間では有名な人でもって、自分でいいグループを持ち渋谷のクラブで毎晩やっている人だった。植木さんがいたバンドのリーダーと親友で、しょっちゅう来ちゃあ、終わると一緒に酒飲みに行ったりなんかしていた。

その人がある日、僕が吹いていたら、酒飲んだあとかなんかに来て、「いい音だよなあ。若いし。将来なんとなく、まあ、良さそうだから、もしサックスフォーン吹けたら、うちのバンドに入れてやるよ」って、そんなこと言われたの。高校3年の時。18か19ぐらいの時だった。

■ ラーメン屋になりたい

松下バンドに行った。それからウェスト・ライナーズに行った時に、女房と知り合い結婚、27歳だった。原信夫さんのシャープス&フラッツに移り、29歳で長男、その後に長女が生まれている。ミュージシャンの中では遅い方で。

シャープ時代の後半。本当にね、ラーメン屋やろうと思っていましたよ。シャープス&フラッツは、当時、流行歌の伴奏バンドっていうイメージしかなくなっていたし、それとねえ、仕事場がずい分減って、一時、周りのミュージシャンでも転業した人がものすごく多かった。米軍のキャンプも段々なくなっちゃてね。

仕事がイヤでイヤでっていうのはねえ、自分の思うことができないわけよ。といって他に向けての仕事っていってもちょっと目安が立たない状態で。子供はいる、家族のことを考えちゃうと、そんだったらいっそ転業をって。

ちょうど札幌ラーメンが流行りかけの頃で、他の人はあんまり知らないわけ。それでね、毎日ラーメン作ってね、出汁の取り方・麺の選び方等々ものすごく研究したことあんの。

そしたら女房が、私ラーメン屋なんてキライってんだね。そういうこと言われるとさあ、もう、本業やるしかないよ。暗にね、「仕事が無くなったら無くなったでいいじゃない。あんたはサックスフォン吹いてりゃいいの。自分の好きなようにしなさいよ」ってことらしいんだよな、いうなれば。女房もその頃、自分でも仕事し始めてたし、子供もちょっと大きくなっていた。それで結局、サックスフォーンをずっと50年やっている。シャープはやめた。

■ ブルーコーツ時代

僕は、一生の自分の狙いとしては、オーケストラでリードアルトっていうのも吹けて、しかもアドリブもできて、という一人になりたかったの。ただ、それまでは、そういうリードアルトってのはいなかったんですよ、日本には。アメリカ人はみんなそれだったけど。

そういうプレーヤーになりたくて、本当のオーケストラをいっぺん味わおうと思って、シャープなら不足はないと、原さんの誘惑に負けて入ったの。それで10年間やったんだけど、音楽内容がね、江利チエミとか美空ひばりの伴奏になっていって、それが辛くてね。

それからブルーコーツに入って、自分の思う通りのリードを吹いて、で、ブルーコーツ時代を創り上げたっていっちゃあなんですけど、でも、まあ、これは過言じゃないと思う。

はっきり言って、ヘタでもなんでもめちゃくちゃもうかったっていう時代もあって、バブル時代に、スタジオミュージシャンとかね、ものすごく持て囃されて、コマーシャルソングの制作が多くて、月に百万だのって稼げる連中がいたわけ。

その時も、僕は汲々としてオーケストラで一人ただやってた。だから、一生を通じて、潤うだけのお金を取ったなんていっぺんもない。僕は、そういう所は全然通ってないからね。だから、いまだに少々金も無くても、それが当たり前だと思うからそんなことでは悩まないわけですよ。

■ 本当にいい音とは?

松下バンドに行った時、有名なギタリストで沢田駿吾って人と一緒にやったんですよ。で、彼が、「トシ坊、お前は最初からものすごく音が良かった。それで、ずっとお前はそのままだよ」っていまだに言う。

だから、僕が言っちゃあおかしいけど、天性の何かってのはあったんでしょうねえ。ただ、それは自分じゃ分かんないですよ。そんなことは聞いている人が決めることだから。

でも、「俺がヘンな音になったら、絶対にやめるよ」と言っている。いや、いまだにそれを一番気にして生きてんだから。

逆に言うと、そういう努力はしてるわけ。結局ね。年を取ると、力がなくなる。例えば、要するに、吹いていてキツい調整だったら、これは年取ったら息が続かないわけ。3年か4年前ので吹いたら苦しくて吹けない。それを段々楽にする。僕はもう、2年か3年前から始めてんの。いっぺんにヒョッとは変えられないからね。だから、分かんないように徐々に自分で調整して、で、今の状態に持ってきている。そういう秘密はあんまり言わないんですよ。

あらゆるものが落ちていく。だから努力してます。いつまでも自分の気に入った音を出せれば ―、それがまずとりあえずの目的ね。

それでいつもそうなんだけど、その、いわゆる「聞いてください」って思う時ってのはねえ、こう、前に、やっぱり女性のイメージが湧く、ドーンと出てくるねえ。諸々のことを全部忘れてる。その曲の中に完全に没頭してるっていうか、自分がその中に入り込んじゃう。だから、いつまでも色気は、忘れちゃダメだと思うよ。

今でも、音ってなんだろう、本当に何がいい音なのかってことを、探っていますよ。

おわり    (2004)


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