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フレディ・グリーン・インタビューFREDDIE GREEN INTERVIEW

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フレディ・グリーン インタビュー

1977年8月9日にジャズ評論家のスタンレー・ダンス夫妻がフレディ・グリーンをインタビューした膨大な記録の抄訳です。音声テープから文字化しものですが、内容に前後関係が変な箇所が多くありました。(出典:フレディ・グリーン公式サイト:インタビュー)

ベイシー楽団でのオーディション

1937年、私はカウント・ベイシーのオーディションを受けました。当日はビリー・ホリデイとのレコーディング・セッションの日でした。

私はマイク・セッティングをしている会場に最初に入りました。次にレスター・ヤングが、続いてバック・クレイトンが、次にベニーグッドマンが来ました。次にビリー・ホリデイがやって来ました。その時私は「ワオー」と感じました。テディ・ウィルソン、ウォルター・ペイジ、ジョー・ジョーンズと私の4人は非常にいい演奏ができました。

レコーディングは難しいものだと思っていましたが容易な感じでした。ビリーは譜面を持たずにピアノ譜を見ていました。テディは彼女に寄り添って弾いていました。テディは「これでいいんだよ」と言っていました。ファースト・コーラスの次にレスターが入ってきましたがまったく問題は生じることはなく、複数のテイクを採る必要はなく、このセッションが最高のものになりました。

カウント・ベイシー楽団でのキャリア

1937年、ベイシーの最初のニューヨーク進出でのローズランド・ボールルームでの演奏会でした。カンサス・シティからニューヨーク行の途中シカゴに途中下車しましたが、そこでフレッテャー・ヘンダーソンから数多くのアレンジメントの提供を受けました。
ベイシーはローズランドでは何か戸惑っていたようでした。聴衆の背を向けて目もくれない様子でした。

ブラック・キャットで演奏していたとき、ジョン・ハモンドがちょくちょく私の演奏を聴いていました。ハモンドはベイシーが当地に来たときオーディションを受けるようにセットしました。ある日の午後、ローズランド・ボールルームでベイシー・バンドのオーディションを受けました。ベイシー・バンドにはギター奏者がもうひとりいました。クロード・ウィリアムスですが、彼はギターとバイオリンを弾いていました。私はこのオーディションで職を得たのですが、それがビリー・ホリデイとの録音日だったのです。

オーディションのとき、ベイシー楽団の連中は立って取り囲んでいて、私はその中に独りぼっちでした。私はきっと誰かが私の演奏を聴いてくれているものと思っていました。最後にベイシーが登場したときブルース曲を弾き始めましたので私も一緒に演奏しました。終わったときに「よっしゃ、うまくいった」と思いました。でも誰も言葉を発しませんでした。ベイシーが「うん、ええ音やった」と言いました。で、その夜からブラック・キャットで働くようになりました。

ベイシーから次の会場はピッツバーグのウィリアム・ペン・ホテルでの仕事と告げられました。ピッツバーグには独りぼっちで行きましたが、ホテルにはだれもいませんでした。部屋のドアをノックしても誰も返事がなく、まさに迷い子状態でした。あとでベイシーから「君はなんで外に行かへんの?」と言われちゃいました。

ベイシー楽団でのギター・スタイルの創造

ベイシー楽団でどんな奏法をしたらいいかまったくわかりませんでした。きっとシングル・トーンの奏法をしたらいいんだろうと思っていましたら、ハーシャル・エバンスが「ちゃうちゃう、タイム・キープすんねや」と言ったので「よっしゃ、わかった」とタイム・キープに徹しました。この職を失いたくなかったのでリズム奏法に専念しました。そしてその後もリズムを弾き続けています。

ベイシーとジョー・ジョーンズとウォルター・ペイジがストック曲を始めて、まずベイシーが弾いて、次にジョー・ジョーンズが入り、続いてウォルター・ペイジが入ったのでお次は自分の番だと弾こうとしたら、連中ときたら「ちゃうちゃう、タイム・キープしてくれや」と言うんです。なんでやねん?と思いましたが、彼らの望みがタイム・キープを望んでいるんだからそうすることにしたんですよ。

オール・アメリカン・リズムセクションについて

ウォルター・ペイジは優れたタイム・キーパーだった。彼はバンドをまとめてくれました。ソロを演奏することは少なかったけど、彼が演れば常にうまくいったものです。彼はまっすぐな進行を好んでいました。ウォルターはそんな男でした。

私たち(グリーン、ベイシー、ペイジ)はジョー・ジョーンズのテンポが外れることを抑制していました。ウォルターは誰よりも彼の抑制に努力していたので、問題は生じませんでした。多くの人はジョーのことは理解できていません。私にはわかっています。ジョーはビッグバンドの一員なのです。

バンドの一員だと感じるまでにしばらく時間がかかりました。リズムセクションに慣れるまで手探り状態でした。ベイシーからのヒントで目覚めました。ベイシーはすべてクールだと示していました。

オール・アメリカン・リズムセクションのカルテットのレコーディング後に心地よい気持ちになりました。リズムセクションだけの演奏だけで楽しめました。あのリズムセクションは素晴らしいものでした。とてもエキサイティングなバンドだったので楽しかった。リラックスしていて、ルーズで、自由で、イージーでした。ただスウィングするだけで、規律はありませんでした。ほとんどがリフやフィーリングが中心となったヘッドアレンジメントで構成されていたので、非常に簡単なものでした。誰でもがそれを感じることができました。観客も同様にそれを感じることができたんです。

1940年代のベイシー・ビッグ・バンド

バンド全体は本当に仲が良かった。個性がみんな違っていて、私たちはまるで幸せなひとつの家族みたいだった。そして、それを維持しようと努めていたんです。

レスター・ヤングを聴き、彼のために演奏するのが本当に楽しかった。彼は深く印象に残りました。なぜなら、彼は他とは違っていて、狂ったようにスウィングし、演奏はとってもメロディックだったんです。

レスターの音は違っていました。ニューヨーク周辺で聞きなれた音とは違っていました。コールマン・ホーキンスとも、ベン・ウェブスターとも、プリンス・ロビンソンとも、さらにチュー・ベリーとも違っていました。レスター・ヤングが脱退したためポール・ゴンザレスが入団しました。ポールは酒を飲まず、体調は良好でした。彼の演奏も素晴らしかった。

バスの中では、私たちはトランプをしたりギャンブルもしました。ベイシーは私たちと同じバスに乗っていました。私たちは家族として、兄弟として、本当に仲良くしていました。スウィーツ・エディソン、レスター・ヤングそしてバック・クレイトンとはよく一緒に出掛けました。仲がよかった。遠征中はルームメイトだった。ジャムセッションンもよくしたものです。
ベイシーはよくみんなと遊んでいました。私たちは幸せな大家族だったんです。

1950年代のベイシー・スモール・グループ

1950年にベイシーはバンドを小さなグループに縮小しました。私を含めて全員が解雇されたんです。長期間にわたって一緒に活動していたのにね。私は約2か月間グループから離れていました。最も悲惨な期間でした。これまでの人生で見たこともない2か月間でした。夜、私はバンドの夢を見ました。

バンドが私を手放した直後、私はバードランドでレスターと一緒に働きました。その後、マーシャル・ロイヤルがその小さなグループに加わりました。それはベイシーがバンドの増強を始めたときで、彼がバンドを最初から作り始めたんです。

この小さなグループはカナダまで行きました。小さな場所で演奏しました。大きな場所は避けて小さなクラブみたいなところでした。雰囲気は違っていましたが基本はリズムセクションとベイシーだけでした。このバンドは2年ほど続いたと記憶しています。

1950年代のベイシー・ビッグ・バンドについて

マーシャル・ロイヤルのおかげでバンドは違ったキャラクターになったと言えると思いますね。彼はバンドのリーダーのようなものでした。彼は音楽性を高めるように進め、ベイシーも彼にバンドの指揮まで任せていました。サウンドに関する限り彼は非常に多くの影響力を発揮しました。音楽性がさらに高まりました。さらにニール・ヘフティによるアレンジメントと、バンドの2人のアレンジャー、フランク・フォスターとアーニー・ウィルキンスです。彼らはバンドに多大の貢献をしてくれました。

1954年のヨーロッパ旅行は皆に大きな影響を与えました。とてもエキサイティングだったしスリルでもありました。まず大陸に入りイギリスに行きました。そこでは信じられないほどの大歓迎を受けました。トニー・ベネットとも海外に行きましたし、フランク・シナトラともロイヤル・フェスティバル・ホールで出演しましたし、さらにパレディアムでも出演しました。

フランク・フォスターとフランク・ウェスを迎えてから私たちは家族の一員として戻ってきたような気がしました。その期間中はバードランドで過ごしていた頃と同じように家族的な雰囲気になりました。バードランドに出演中は夢見心地の期間でした。そしてこれが1960年代まで続きました。

1960年代のベイシー・ビッグ・バンド

私たちはフランク・シナトラとラスベガスで演奏しました。そこで最初のレコーディングをしてサンズ・ホテルにも行きました。そこのステージでレコーディングして、またそのステージでも録音しました。それは大衆が二人がいるところを見たいと望んだからです。

1970年代のベイシー・ビッグ・バンド

結局のところ、何年も経ってもバンドは基本的に同じなんです。当時もよかったし今もよい。様々な変化はあったものの今もそれは続いています。しかし、今ではアンサンブルがヘッドラインになっていますが、数年前はソリストでした。今のバンドはソリストにあまり依存することはありません。まったく違うスタイルなんです。フィーリングも異なっています。

給料に関する限りどうなっているのか知りませんが、私たちはたくさんのコンサートを開催し、さらに高校、大学、フェスティバルなどで演奏しています。それでなんとかうまく進んでいるんだと思う。しかし、いろいろ足を伸ばしたい人もいるだろう。場所があればその後にジャムセッションに行く人もいるだろう。でも今は場所を見つけるのが難しい。数年前とは違うんだね。



私たちは通常の時間に演奏し、客が望めば曲数を増やします。客がもっと望めばそれを演奏し、それからテーマソングのワン・オクロック・ジャンプを演奏します。通常は通常の形式に2曲を追加します。

私たちの聴衆は50歳以上ですが、ここ4、5年は子供たちがたくさんいることに気づきました。彼らはサインを求めにきています。私たちはたくさんの高校や大学で演奏しており、学校内にはビッグバンドがあるんですから。

(未完です)

(2023)





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