本文へスキップ

五十嵐明要オフィシャル・ウェブサイト

インタビューINTERVIEW

【沢田駿吾とダブル・ビーツのオリジナル・メンバー 五十嵐明要(as)の証言】

■ モカンボでは駿吾ちゃんは仕切り役だった

――沢田駿吾とダブル・ビーツ結成の経緯は?

1950年頃、私と駿吾ちゃんは松下彰孝(d)のメトロトーンズというバンドに所属していたんです。渋谷のフォリナーズ・クラブという外国人向けの店で演奏していたんだけど、しばらくしてその仕事がなくなって、バンドは解散。私は厚木の基地近くのキャバレーへ行って。そしたら、今度はその厚木の仕事もなくなって、東京へ戻ってきた時に、駿吾ちゃんから「トシ坊、また一緒にやろうじゃないか」と声をかけてもらったんです。そこから沢田駿吾とダブル・ビーツを名乗ったと記憶していますね。ちなみに、フォリナーズ・クラブではアフター・アワーズのジャム・セッションをやっていたんだけど、本格的なものは日本で最初だったんじゃないかな。

――ダブル・ビーツではどのような曲を演奏していましたか?

まず、ビ・バップ。日本ではJ.A.T.P(1953年に東京で開催されたJazz At The Philharmonic)でも盛り上がった「パーディド」なんかも。一時は徳さん(徳山陽/p)の好みでデイヴ・ブルーベック風のウェストコースト・ジャズもやったけど、私はその時はポール・デスモンドになってみた。で、徳ちゃんが辞めて、守安(祥太郎)さんが加入するとカンザスシティ・スタイルの曲が増えたかな。「俺は(カウント)・ベイシーが好きだ」って守安さんは言っていた。彼はもちろんバド・パウエルも好きで、そういったバップも得意としていたけど、バンドで「なんかやろうか」なんて言う時にはベイシーだった。

――当時はどんなところで演奏しましたか?

米軍キャンプがメイン。米兵からのリクエストに応えながら演奏してた。基本的にはアメリカでの流行歌(ポップス)なんか多かったけど、中にはジャズ好きもいて「パーディドやれ」とか「次はクレイジー・リズムだ」などと声が上がったよ。

――当時、ジャズ理論はどのように学びましたか?

私は独学。コードの何も最初はわからなかった。だから、とにかくレコードを頼りに、それこそ何回もかけて、同じように吹けるようにした。アドリブは……まぁ、これはその人の性格にもよるかもしれないが、吹きたい、弾きたいという気持ちで、図々しくやってきた。自分の耳で響きを確かめ、少しずつアドリブができるようになっていったんだ。メロディを基本として、それを少しずつフェイクしながら、というのも基本だ。

――1954年には伝説のモカンボ・セッションもありました。

モカンボでは駿吾ちゃんは仕切り役だったから、残念ながら彼の演奏はレコードには残らなかった。その代り、アルト・サックスでは私や渡辺貞夫、山屋清、渡辺明、渡辺辰郎、テナー・サックスでは宮沢昭、ときどき松本英彦なんかを代わる代わるステージに上げて盛り上げたんだ。今思うと、あんなことよくやっていたなと思うほど激しいビ・バップをやっていたね。実は私、チャーリー・パーカーはあまり好きじゃなかったんだよ。でも、当時「パーカーは嫌い」なんて言える空気はなく、そんなことを言ったら村八分にされそうだった。そのくらい、誰も彼もがビ・バップだった。私はジョニー・ホッジスの音色が一番好きで、この人みたいな音を出したいと思っていたんだけどね。

――ジャズ・ギターというのは当時人気があったんですか?

お客さんがギターを望んでいたかどうかはわからない。ただ、当時のギター弾きはみんなチャーリー・クリスチャンを学んでいたよ。あれこそがジャズだったし、ビ・バップの原点でもあったから。バーニー・ケッセルやレス・ポールといった人たちも人気があったな。だからギター弾きの数は意外と多かったよ。

(2018)