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五十嵐明要オフィシャル・ウェブサイト

インタビューINTERVIEW

和ジャズの巨人・五十嵐明要

■ 植木等さんに連れて行かれた銀座エデンでの初仕事

――サックスを始めたきっかけは? 実兄の五十嵐武要さんはドラマーですが、明要さんはなぜ木管楽器を選んだのですか?

うちの兄貢がドラムを叩いていたバンドで、私はバンド・ボーイとしてアルバイトで働いていたのです。そのバンドにのちに私の姉貴の夫になったサックスの村田重吉さんという人がいて、その人に「サックスをやりたい」と相談したら「ぜひやれ」と勧めてくれたんですよ。本当はトランペットの方がやりたかったんですがね(笑)。で、じゃあサックスの前に最初はクラリネットからやれということでクラリネットを始めました。

――1949年ごろに銀座の「エデン」というクラブで、クラリネットで仕事を始められたと伺っていますが。

バンド・ボーイを続けながら私はいつもクラリネットを持ち歩いていて休憩時間に練習していたのですが、ある日、東京駅でバンドのリーダーから「今日お前は仕事に来なくていいから、あの人に付いて行け」と言われて、連れて行かれたのがその「エデン」でした。「吹かなくていいから、カッコだけで立ちんボしてろ」ってね 。実は私を東京駅から連れて行った人が後にクレージーキャッツで活躍される植木等さん(vo,g)だったんですよ。それから1週間くらい、代わりの人が見つかるまでということで手伝っていたのですが、ある日植木さんから「君、良かったらここのバンドにいるか?」と言われて、私は大喜びで「お願いしまぁーす 」と。それから何年かそのお店で演奏をしたんです。

――楽器をクラリネットからアルト・サックスに変更した経緯は?

別のバンドのリーダーの松下彰孝さん(ds)という人が、私の演奏を聴いていてある日「もしサックスが吹けたらうちのパンドに入れてやる」というんですよ。当時そのバンドは斬新なビバップを演奏するすごくいいバンドだったので、行きたくて行きたくて。すぐにクラリネットを売ってアルト・サックスを買って「入れて下さい!」って。

――その松下さんのバンドで、渋谷の米軍向けの「フォーリナス・クラブ」に出ていらしたころ、窓の外で渡辺貞夫さんが五十嵐さんたちの演奏を聴いてフレーズを覚えて、家に帰ってすぐ試してみたりしていたという有名なエピソードがありましたね? 実際に五十嵐さんはクラリネットを持って飛び入りしてきた渡辺貞夫少年とそこで知り合ったり、言葉を交わしたりしたのですか?

ステージのすぐ横が硝子窓だったので、店の中の音が外にガンガン聴こえるわけです。そこヘナベさんがよく来ていて外で演奏を聴いていたらしいんですよ 。悪いやつで(笑)。日本でもアメリカと同じように演奏が終わったらみんな集まってセッションをやろうということで、深夜の12時ごろから店のオーナーがミュージシャンに声を掛けて セッションをやっていたんです。そのときナベさんが来ていて私の脇にいたので「吹きな!吹きな!」と言ったら、クラリネットを出して演奏したんですよ。これが上手かったんだよ。なかなかやるもんだなと思いましたね(笑)。

■ パーカーを好きじゃないと言おうものなら村八分

――1950〜52年ごろは澤田駿吾(g)のダブル・ビーツで銀座のテネシーなどに出演していて、チャーリー・パーカー(as)などの曲を演奏していたそうですが、五十嵐さんはそのころパーカーに影響を受けましたか?

結局、当時アメリカで第一人者であったパーカーに従わない手は無いということで、日本のミュージシャンはみんなパーカーをやったんです。ところが私はあまりパーカーを好きじゃなくて(笑)。でも当時そんなこと言おうものなら、村八分になっちゃうんでね。

――そして和ジャズの歴史的な変革期を記録した貴重な録音「モカンボ・セッション」が結果的に五十嵐さんの初レコーディングとなるわけですが、そのとき参加された渡辺貞夫、渡辺明、山屋清ら、ほかのアルト奏者はそれぞれ、どのように映りましたか?

スタイルはおのおので多少違っていて、山屋さんはパーカー風のフレーズだけど白人的なプレイをして、ナベさんと私とコロちゃん(渡辺明)はパーカー修行中なんですよ。だから、だれが一番パーカーのフレーズを持っていて、それをいかに多く吹けるかっていうのが一つの争いだったんです(笑)。その中で一番勉強していたのはナベさんだったねぇ。守安祥太郎さん(p)がパーカーのソロを採譜した譜面をサックスみんなで回すわけ。それを写譜して自分のものにしたら、次の人に回すんですよ。コピー機など無い時代でしたから、守安さんから譜面を貰って当時はいかにそれが嬉しかったか。

――1957年ごろから参加された「西条孝之介とウエスト・ライナーズ」では、前田憲男さん(p)や原田忠幸さん(bs)などと一緒にウエスト・コースト的なヘッド・アレンジの曲を演奏されましが、その当時はアート・ペッパー(as) なども研究されたのでしょうか?

うまい人の真似をするということが早道なんですよ。何を参考にするか決めたらできるだけそれに近づくように努力して、何ヶ月でも何年でもいいから一度はそれに没頭して成りきる。それが私のやり方なんです。今までに5〜6人いますね。「今は俺ポール・デスモンド」とかね、アート・ペッパーのときもあるし、バド・シャンク(as) のときもあれば、レニー・ニーハウス(as)も。前田さんのアレンジは当時やはりレニー・ニーハウスのニュアンスのものが結構多かったですね 。だからレコードを聴いてそのスタイルで吹かなきゃいけないと思って、それに没頭してやりました。

■ シャープス&フラッツ在籍中は感謝の10年間でした

――その後「原信夫とシャープス&フラッツ」に参加されますが、ビッグバンドでの経験は五十嵐さんにとってどのようなものだったのでしょうか?

シャープス&フラッツは最初に入ったオーケストラですが、アルト吹きとして絶対に一度はオーケストラのリードを吹いてみたいという念願があったので、入団後はそれなりに勉強しましたよ 。初めは高を括っていたけれど、入ってみたら譜面は初見で吹かなきゃいけないし、リ ード・アルトは絶えず音程は気にしなきゃいけない。歌伴をやるって言えばそれもちゃんとこなさなきゃいけない。「うぁー、こういうことやってんだ」と思ってそれからもう心改めてやりましたね。音楽に必要なエッセンスがすべて人ってくるので本当に原さんには感謝の10年間でした。

――シャープス&フラッツで学んだ中で特に勉強になったと思うことは何ですか?

私にとって大きかったのは故前川元さん(as)が途中でシャープに戻ってきてリードを吹き、私がサードに回って 一緒に演奏していた時期があるのですが、前川さんは非常に素晴らしい確実にリード・アルトを次く人だったので、この人にいかにうまく合わせるかという勉強が後になってセクションを作る場合の役に立ちました 。自分で一度サイド(サード)をやってみないとそういうことは分からないですね。 しかしだんだん歌謡曲の歌伴が活動の中心になってきて、ジャズとは程遠くなってきたときに「俺はこんなことをやるためにサキソフォンをやって来たのではない」と思って、シャープを思い切って辞めちゃったんですよ 。

――その後は「ブルーコーツ」で 1967年ごろから約10年間リード・アルトとコンサート・マスターを務められますね。ここでも歌伴も演奏しなければならない状況は変わらなかったと思うのですが、なぜまたビッグバンドを渡り継いだのですか?

歌謡曲を演奏するのはどこのビッグバンドも同じなんだけどね。ブルーコーツはきちっと合うように決められたバンドじゃなくて、スウィング感を大事にしていました。どんなバンドなのかと思い、楽器持って一度テストをしに行って一緒に演奏したんですよ。そうしたらものすごいスウィング感で、「こっちの方がジャズだ! 」と思ってね。それですぐに入団を決めました。 本当の意味でオーケストラを楽しみだしたのはブルーコーツに入ってからですね。

■ 音に関してはとにかくホッジスをずっと追ってきた

――その後「ジョイフル・オーケストラ」を経て「ザ・聞楽亭」を結成され、いよいよコンボでの活動を精力的にスタートし、1986年には初リーダー作「サックス・トーク」を発表されました 。それ以前の録音では鈴木重男(as)、宮沢昭 (ts)、西条孝之介(ts) 、三森一郎(ts) 、岡崎広志(bs) との「ファイヴ・サクソフォーン」の作品が印象に残っています。この当時結成されていた「ウエスト・ライナーズ」のメンバーが中心の編成ですが、アレンジとピアノは前田憲男さんですね? 前田さんもお付き合いの長いお仲間のお一人だと思いますが。

彼は「天才」。とにかくいろんな楽器を多少いじっているので、彼の書いたフレーズ、たとえばサックスならそれは決して吹きにくくないし効果的に音が並ベてあるわけです。彼はサックスの運指を知ってるんですよ。たとえばアルトで上のドとオクタープ・キィを押えたレを連続でドレドレドレドレなんて吹くのは困難なことを彼は知っているからそうは書かないんです。

――お話を伺っていると五十嵐さんはいろんなスタイルの演奏の習得やビッグバンドのご経験などを経てこられたからこそ、ご自分のスタイルを確立させたのだと思いました。私の勝手な憶測ですがスタイルに共通項があるのかと思いますので、次に挙げるアルト奏者について、それぞれ五十嵐さんのお持ちになっている印象を伺いたいのですが。まずはジョニー・ホッジスからお願いします。

私がサックスを手にして、アルトの本当の音色はどういうものなのかということが分からずにいたときに、デューク・エリントンの「リンゴの木の下で」という曲のホッジスのソロを聴いて「うぁーアルトってこんな良い音がするんだ!私は一生これを狙っていこう」と思って。音に関してはとにかくホッジスということでずっと追ってきたわけです。パーカーとはちょっと違うんですよね。だからそんなこともあってパーカーは馴染まなかったのかもしれませんね。ベニー・カーターやマーシャル・ロイヤルも生で聴きましたが、ジョニー・ホッジスが初米日してNHKのテレビ番組に出演したときにスタジオの脇で聴くことができました。太くて明る<甘い音色にビックリしましたね。

――続いてウィリー・スミス。

やっぱり美しいし、この人は独特の甘さがある 。良いエッセンスはできるだけいろんなところから取り入れようと思ってやって来たので、彼は捨てがたい存在です。

――マーシャル・ロイヤルは?

カウント・ベイシー楽団で彼がリードを吹くサックス・セクションはよく歌う独特のサウンドでした。ボビー・プレーターになると「ごく普通」という感じでしたが……。ブルーコーツでもやはりサックス・セクションの音を聴いてすぐにブルーコーツと分かるサウンドを求めてやっていました。

――ボブ・ウィルバーはいかがですか?

彼はジョニー・ホッジスに非常に音色が似ていて、レコードを聴いてちょっと好きになってその後オランダで共演したんですよ。そのときは私がアルトを吹いたから彼はクラリネットを吹いていたかな?

――私はヤマノ・ビッグバンド・ジャズ・コンテストにゲスト出演されたブルーコーツの五十嵐さんを生で聴くことができた最後の世代なのですが、その当時から五十嵐さんは学生バンドを聴く機会を多くお持ちだったと思います。アマチュア・ビッグバンド、特にサックス・セクションのアンサンブルに関してアドバイスを頂けますでしょうか?

確かにアマチュア・ビッグバンドの技術は向上してしていますね 。みんなうまいと思います。音は良く出るし、音程は良いし、アンサンプルも良い。ただ私が見て何が足りないかというと、表現力かな?歌うっていうことがあまり感じられなくて、サックス・ソリの歌い方がちょっと物足りないなぁと思うときがありますね。いろんなオーケストラの演奏をたくさん聴かないとそういうのは生まれて来ないと思うね。

――サックス・マガジンの読者には70歳代でサックスを始めた方や何十年ぶりで演奏を再開する人も多いのですが、五十嵐さんのようにいつまでも若々しくサックスを演奏するためのアドバイスをお願いします。

だれもがそう言うと思うんだけど、「長く吹かなきゃ駄目だね」の一言に尽きると思います。時間を長くというのではな く、マウスピースを咥えている機会をできるだけ多くすることです。一つの秘訣として、必ず一日一回楽器ケースを開けて、組み立ててとにかく「プー」と嗚らす、その日はそれで練習終わりでもいいから 、ただしそれを絶対に毎日やる。毎日やっていると、一吹きじゃ済まなくなるから、二吹き三吹き、5分経ち10分経ちと、そのうち自分で興味がのってくる。紬習の楽しさを味わないとね、苦しんで練習やっちゃ駄目です。

――最後に、今後の活動予定は?

特にこうしたいとかいう目標はないです。自分のペースで毎日やっていて、その時々で自分が楽しければいいと。その楽しさを求めて今演奏をしているということです。最近は杉原淳(ts)と原田忠幸(bs)とでKKB238(後期高齢者バンドの略で、238は3人の年齢の合計)などと銘打って年寄り3人サックスで活動をしていますが、元気で演奏できる幸せに感謝しながら楽しんでいます。

(2015)