”秋サバは嫁に食わすな”というくらい何でも旬のものを食べるのが一番うまいようだ。昨年はあまり当たり年ではなかったけれど、松茸だって傘のすっかり開いてしまったやつよりも、手ごろな大きさのものの方がずっと香気があって旨い。食物に限らずよろず物事にこれはいえるのであって、まして発展しつつあるジャズにおいておやである。
今ここにジャズの発達をグラフに描いてみよう。この曲線には三つの大きな上昇点が見られるはずである。その一つは、1926〜8年頃で、これはルイやモートンやジミー・ヌーン等のニューオーリンズ・ジャズのプレーヤーがデキシーでない演奏をしたり、エリントンやヘンダ―スンのオーケストラが発足して注目すべき作品を世に送った時代なのである。
次の一番長い上昇カーヴが所謂スイング時代で、ベニー・モーテン、アンディ・カーク、ルイ・ラッセル、キャブ・キャロウェイ、チック・ウェッブ、ドン・レッドマン、ベニー・カーター、ジミー・ランスフォード、カウント・ベイシー等のフル・バンドが続々と登場してアイデアを競った時代である。
そして同時に中間派と呼ばれる小編成でのレコーディングが盛んに行われた。もちろん白人のビッグ・バンドも雨後の筍のように出現して商業的に成功していった。フル・バンドは編曲を用いてもソロを重視したので必然的にアド・リブの巧いプレーヤーはスターとして取り扱われた。1930年にベニー・カーターがリーダーになってフレッチャー・ヘンダ―スンのすぐれたメンバーをピック・アップして5曲の吹込みを行った。それらはソロからソロへと連続する形式を具えている。中でも”ディー・ブルース”はその典型である。私はここらを中間派の始祖とみる。
フル・バンドというブドウ酒から中間派というブランディを蒸留するこの技術はそれからも盛んに用いられていった。いかに制約の少ないフル・バンドにいるプレーヤーもコマーシャリズムを離れた中間派コンボの吹込みには日頃の情熱を傾けただろうし、そこでは大バンドでは出来ない新しい実験も出来ただろう。
次にテディ・ウィルスンやライオネル・ハンプトンなどの中期中間派のレコーディング・パーソネルをジックリと眺めていただきたい。メンバーのほとんどが当時のフル・バンドに属している事のほかに、例えばカウント・ベイシーとデューク・エリントンとベニー・グッドマンというような二つまたは三つの大バンドのメンバーが仲良く集まっている事を発見されるであろう。即ちステージでは混ざり得べくもない大バンドのメンバーが中間派のレコーディングを通じて音楽的交流を行っているのである。
もっと後期になると吹込みスタジオ以外には存在しないはずの中間派的コンボが常設的にクラブに出演するようになる。例えばジョン・カービーのオニックス・クラブ・ボーイズやフランキー・ニュートンのカフェ・ソサエティ・オーケストラやキング・コール・トリオのように、そして彼等もレコーディングとなると大バンドの連中と交流したのはいうまでもない。
また中間派の部分だけ拡大して調べると、1939年頃から更に急上昇していることがわかる。これはちょうどジミー・ブラントやチャーリー・クリスチャンやクライド・ハートのような新たな人材を得た中間派がモダン・ジャズをみごもったからである。この辺の事情は本誌に永く連載された油井氏の「1939年以降のジャズ史」のはじめの方にくわしく出ている。1945年頃はまだバップのミュージシャンとスイングのミュージシャンが渾然と共演しているから面白い。
レッド・ノーヴォのレコーディング・セッションにはガレスピー、パーカーにテディ・ウィルスン、スラム・スチュワートやスペックス・パウエルが付き合っているし、バック・クレイトンやサー・チャールス・トンプスンがチャーリー・パーカー、デクスター・ゴードンなどのバッパーと入り乱れているレコードもある。だがこれを笑ってはいけない。彼等はそこで真剣になっているんだから。ディジー・ガレスピーがキャブ・キャロウェイのオーケストラでモダンなフレイズを吹き始めると、キャブは顔をしかめて言ったそうだ。「後生だから、そんなチャイナの音楽みたいな節はやめておくれよ」と。
私は中間派という言葉を前置きなしで使ってしまったが、これは今から4年前に大橋巨泉氏がつけた名称で、なんのことはないスイング派のことじゃないかという人もあった。しかし、ベニー・グッドマンのトリオやクァルテットは名演であるが中間派ではない。しかもこれが決して黒人偏重でない証拠にアーティ・ショウのグラマシー・ファイブやベニー・グッドマンでもコロムビアに入れた六重奏団だけは立派に中間派としての性格をもっていることを認めるのである。中間派と呼ぶ資格のあるなしは、いかに録音がひどくても聴く人をして思わず衿を正させる前進的意欲のあるなしで決まる。そして最近の西海岸の人達がやる実験的ジャズとは違って同じ進歩的であっても決してスイングするビートを失わないのである。
中間派のファンはそれらのレコードを聴くとき、漠然とLP12曲を聴き流したりするのを最もきらう。納得のいかないソロや気に入ったフレーズは「この音、この音」と叫んで何度でもレコードのその部分だけを聴き直す。その為にレコードの一部分だけが真っ白にになってしまうこともあるが、そうあればソロはもちろんアンサンブルまで暗記できる。大体たった3分間に心血を注いだ傑作を暗記しないなんて演奏者に対して失礼だとさえ思われてくる。どうも話が少し押しつけがましくなってしまったが、あ、そんな聴き方もあると思っていただきたい。
さて、それでは私がこれほど礼賛する中間派は現在は一体どうなったんだろう。奇跡を俟たない限り中間派は死に絶えてしまったんだろうか。否である。フル・バンドからの理想的抽象として出発し、フル・バンドの交流の場として、ジャズの実験室ともなり、やがてそれ自身独立して存在した我が中間派は死んではいない。それどころか姿こそ即時代的に変えたが中間派の精神はしぶとくも我々の目の前に現存する。聖火のリレーを受け継いだ若手選手はいま走り続けている。
決して、その火を消さないように。
スイング・ジャーナル 1960年新年号」から転載させていただきました。(一部修正)