本文へスキップ

Webmaster's Choice

ジャズ・ファンJAZZ SECTARIAN

>>次へ

ジャズ・ファンの分類論 油井正一

ゆき詰まったスイング・ジャズが、ビ・バップの発生をうながし、バップのゆきすぎた部分が調節されて、クールとなり、クールのゆきすぎもまた矯正されて、今日のいわゆるモダン・ジャズに発展した――というのが、1940年以降、約15年間のジャズの動きです。

一方、古典復活への愛着は、「ディキシーランド・リヴァイヴァル」という旗じるしのもとに結集され、ここに、革新《モダン派》と保守《ディキシー派》に分裂したジャズ・ファンは、ケンケンガクガクのいがみあいを展開し、たがいに相手をコキオロスこと、日本国国会のごとく、保守派が「モダンはジャズに非ず」といえば、革新派は「ディキシーの好きなやつはダイタイにおいてオンチである」とキンゼイ報告まがいの実地調査報告書を公開する始末。

といって、かならずしも、モダン派が党内結集をしていない証拠には、そのなかにも、「ジャズ・リズムを持たないモダン・ジャズはジャズではない。りっぱなジャズは、必ずジャズ・ビートを持っている」というジャズ正統派と、「音楽として立派なら、ジャズ・ビートがあってもなくても結構ではないか」という純音楽派とがあり、一方、ディキシー派のなかにも、録音のいいものをねらう「リヴァイヴァル以降派」と低忠実度最低録音による「古典派」とがあり、この古典派はジャズ・ファンの中、もっとも頑固にして執念深く、地下にもぐって珍盤の発見に努力し、不純なるモダン・ジャズ喫茶などへは出入りせず、もっぱら自宅で、これ以上音が悪くならないように、セッセとレコードの手入れに余念がありません。

以上が今日のジャズ・ファンの分類ですが、ここに注目すべき新政党が出現しました。湯川博士ならぬ大橋巨泉君の提唱する、「中間派」というやつです。その「学説」によると、モダンでなく、ディキシーでもないジャズは、みな「中間派」だそうで、そう説明されれば何のことはない、スイング派のことですが、ファンの盲点をねらっての新党とは、抜け目のないことです。

「生きているジャズ史」1988 から引用させていただきました。