むかしスイング・ジャーナル誌に連載していた「ジャズ・ファン訪問」取材のため、藤岡琢也さんを訪問したのは、1962年6月のことであった。NHKの連続ドラマ「横堀川」で演技賞を得たばかりのこの新人俳優は、そのころ青山一丁目の都営アパートに住んでいた。
最も好きなレコードとして「ヴィック・ディケンソン・ショウケース」を取り出した藤岡さんは、「もし胸の病気をやらなかったらビッグ・バンドのトロンボーン奏者になろうと思うてましてん」といわれた。きっと神様は「俳優になれ」と思し召して彼に病気を授けたに違いないと私は思った。
当時の他のジャズ・レコードとくらべて、音質も演奏も抜群のこのレコードによってジャズの楽しさを知った人、プレイヤーを志した人は知る限りでもずい分多い。その原因となるヴァンガード・シリーズについてまず記すことにしよう。
ジャズ史上最も偉大なプロデューサーであり、タレント・スカウトであったジョン・ハモンド(1910-87)が、クラシックを扱っているマイナー・レーベル「ヴァンガード」から、ハイ・フィデリティの新技術を使ったジャズ・シリーズの制作を委嘱されたのは、1953年の11月のことであった。
当時のジャズ界はハモンドの信奉するスイングから離れて、ビ・バップ一色となり、彼の目には不健康で行き詰まったスタイルに進んでいるようにみえたので、その申し出を受け、彼が信奉するメインストリーム・ジャズのシリーズの制作を開始した。この会社は「ジャズもクラシックも、コンサートホールと同じ音響効果をもつスタジオで録音しなければならぬ」と考えている点でハモンドと意見が一致した。ヴァンガードはフリー・メイソン寺院の講堂を使って、最高のサウンドを作り出していたので、ハモンドもそれを踏襲した。
ハモンドは語る。「ヴァンガードのオーナー、ソロモン兄弟はテープから作られたテスト盤をラボに持ち込み、最高の装置にかけて再生し、オリジナル・テープの質と同じかどうか確かめた。1ダース以上のテスト盤が廃棄されることもあった。5,000枚までプレスすると、スタンパーは破棄され、オリジナル・マスターからまた新しいスタンパーがつくられる。この厳格さがヴァンガードを比類ないものにしていたのである」。
この良心的なレコード会社が失敗した理由を彼は次のように語る。「このシリーズは25センチLPで発売された。ところが大会社はポピュラーやジャズのアルバムを30センチに変えてしまったので、私もオーナーに25センチは時代遅れだと警告したのだが、彼はきかなかった。多分レコードのサイズを大きくして値段を上げるほどジャズは重要でないと考えていたのであろう。ヴァンガードがやっと30センチに切り換えたときはもう手遅れで、25センチ盤はレコード屋の棚でほこりをかぶり売れ残っていた」。
ヴァンガードの音質のよさは、他のレーベルと較べて抜群であった。ビ・バップに不満足だったファンばかりでなく、バップ・ファンもジョン・ハモンドがつくりだすリラックスした雰囲気のなかで、ジャズの主流を記録したヴァンガード・ジャズをこよなく愛したのであった。
この種のバップ以降に現れた正統派ジャズを、モダン・ジャズと区別するために英語では mainstream jazz という。ヴァンガード盤が売り出された1954-55年、若手ジャズ評論家だった大橋巨泉は、ヴァンガード・ジャズに「中間派ジャズ」と名付けた。既にモダン・ジャズ時代に入っていたのに、そうした革新の動きを知りながらあえてスイング・イディオムで演奏するミュージシャンとそのスタイルに対する言葉として適切であるため、今日でもこうした演奏をわが国では「中間派」と呼ぶのである。 (1992)
「ヴァンガード中間派ショーケース」(KICJ-1245/6)より転載させていただきました。