1911 | 3月31日 フレディ・グリーン(以下FGと表記)が誕生 |
1922 | FGの父が死去。母は第二子を妊娠中 |
1923 | FGの弟、クラレンス・グリーン誕生 |
まだ分別の無い年ごろでFGは叔母のナナとニューヨークで暮らすようになった | |
ナナとFGは「へルズ・キッチン」からハーレムに転居 | |
1926 | FGはフレデリック・ジュニア・ハイスクールを中退 |
1928 | FGの母がW.・ベネットと再婚 |
異父弟のジョセフ・G・ベネットが早産 | |
1929 | フレディの母が死去 ナナとチャールストンに戻り母を埋葬 |
幼馴染の恋人ロジー・レオサ・エルモアとチャールストンで結婚 | |
ジェンキンス・オルフェアンズ楽団の見習いだった頃の友人、サミュエル・ウォルカー・ジュニアと共に同楽団のブレイク教官から音楽理論や和声学を学ぶ | |
FGはウクレレを質入れしてバンジョーを入手し、チャールストンのローカル・バンドで夜間に演奏を始める テナーサックスのロニー・シモンズと共に | |
1930 | FGは孤児のバーバーショップ・カルテットのバリトン歌手としてメイン州を演奏旅行 バンドがニューヨークのハーレムでアビシニアン バプテスト教会を訪れた時歌手をやめる |
FGはまたナナと一緒に住み始めた 彼女がストライド・ピアニストたちのホームパーティの仕事を提供 |
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1931 | チャールストンでフレディ・グリーン・ジュニアが生まれる |
1932 | チャールストンのローパー病院でFGの娘ミリアム・コステロ・グリーンが生まれる |
1933 | ハーレムのイヤー・マン・クラブでの職を得る クラブのマネージャーからバンジョーからギターへの即時変更を求められる |
1934 | FGはストライド・ピアノのウィリー・ガントとデュオを組む リズム・ギタリストがお客をダンスしやすくするような編成だった |
1935 | 6月2日 FGに娘のルディ・エロイーズ・グリーンが生まれる |
1936 | FGの妻・レオーサが死去 4人目の子供を妊娠していた |
FGがブラック・キャッツ・クラブでロニー・シモンズのリズム・チックスに参加 ここでダンサーのハッティー・ウェルチと会う |
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1937 | 1月2日頃 プロモーターのジョン・ハモンドがカウント・ベイシーのためにジャムセッション/オーディションを編成 ここでベイシーはハモンドお気に入りのギタリストFGの演奏を聞くことになった |
FGの初吹込みの日 ビリー・ホリデイ、ベニー・グッドマン、テディ・ウィルソン、バック・クレイトン、レスター・ヤング、ジョー・ジョーンズ、ウォルター・ペイジなどのベイシー傘下のミュージシャンが一堂に参加 |
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ベイシーはFGをピッツバーグでバンドに雇用した バンドは豪華なウィリアム・ペン・ホテルのチャッターボックスと契約中だった |
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FGはニューヨークのジャムセッションでベイシーの小編成バンドで演奏 アーヴィングミルのマスター&バラエティというレコード・レーベルで録音 |
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ビリー・ホリデイがベイシー・バンドに参加 | |
ベイシーがビリー・ホリデイとジミー・ラッシングと初共演を果たした | |
FGとビリー・ホリデイはバック・クレイトンとレスター・ヤングと緊密な友人となった | |
FGがミルドレッド・ベイリーと録音 | |
ベイシー楽団に、ジョン・ハモンドの紹介でアレンジャーでトロンボン奏者のエディー・ダーラムが参加 | |
1938 | FGがベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・ジャズ・コンサートでコード奏法によるソロを披露 【このページの下にその時の写真と動画を掲載しました】 |
サボイ・ボールルームでベイシーとチック・ウェブのバトル・オブ・スイングが催される | |
2月28日 ハッティー・ウェルチがFGの第4子を出産。本書の著者・アルフレッド・グリーンである | |
アポロ・シアターでの最後のショーの後、ビリー・ホリデイがベイシー楽団を退団 | |
ハッティー・ウェルチとFGの関係が終了 | |
カンサス・シティ・ファイブ(3月18日)とカンサス・シティ・シックス(9月27日)の録音でFGのプレイ・スタイルが恰好よくなり、「ゼム・ゼア・アイズ」ではボーカリストとしての才能を発揮 | |
ラッキー・ミリンダー楽団からハリー・スウィーツ・エディソンがベイシー楽団に参加。以後FGと親密な友人となる | |
7月からベイシー楽団がニューヨークのフェイマス・ドアでの長期の出演が始まる | |
FGとジェイムス・P・ジョンソンがピー・ウィー・ラッセルと「リズム・メイカース」を録音 | |
1939 | 2月9日 テナーサックスのハーシャル・エバンスが死去 |
ジョン・ハモンドの「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」のレコーディング・セッションに参加 FG、チャーリー・クリスチャン、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、レスター・ヤング、バック・クレイトン、ウォルター・ペイジ、ジョー・ジョーンズと共演 |
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チャーリー・クリスチャンとのルーム・メイトとなったFGはアンプリファイアーを使ってベイシー楽団でのリズム・セッションを試みたが、全く役に立たなかった | |
1940 | FGは「ピッツバーグ・コウリアーズ誌」のギタリスト部門で、チャーリー・クリスチャンとフロイド・スミスを抑えて勝利を勝ち取る |
ベイシーがバンドの解散をほのめかす | |
11月 ベイシーは「バンドを解散することない」と断言 | |
12月 レスター・ヤングがベイシー・バンドを退団 | |
12月 ジミー・ラッシングが「It's the Same Old South」という物議を醸す曲を録音 | |
1941 | ヘレン・ヒュームスがベイシー・バンドから去ってソロ活動へ |
FGがメトロノーム誌のギタリスト部門で年間読者賞を勝ち取る | |
FGの作曲「ダウン・フォー・ダブル」をベイシーバンドで録音 | |
1943 | ベース奏者のウォルター・ペイジが徴兵される 6月7日 FGの作品「Jumpin' for Maria」がベイシー・バンドで録音 |
ドン・バイアスの去った穴埋めにレスター・ヤングが戻ってくる | |
1944 | FGが軍隊適格性センターで身体検査を受ける |
3月 FGは軍隊への身体的不適合とされる | |
9月 レスター・ヤングとジョー・ジョーンズが徴兵される | |
FGは「オール・アメリカン・リズム・セッション」の称号を受る | |
1945 | FGとエルマン・ルディ・ルザフォードの共作「ハイ・タイド」が録音 |
「フレディ・グリーン・アンド・ヒズ・カンサス・シティ・セブン」のリーダーセッションを録音 | |
1946 | 4月 ジョー・ジョーンズが兵役を終えてベイシー・バンドに再加入 |
1月 FGがベニーカーター楽団で録音 | |
1月 FGが「ジャンピン・ジャケー」でイリノイ・ジャケーと録音 | |
FGが2人目の嫁さんバーニス・ジョンソン・グリーンと再婚 | |
1947 | FGとスヌーキー・ヤング共作の「フリー・イーツ」(別名・ジャンピン・ジャイブ)を録音 |
FGとカウント・ベイシーとミルトン・エビンス共作の「アイ・エイント・マッド・アット・ユー」を録音 | |
サー・チャールス・トンプソンと「テイキン・オフ」を録音 | |
ハリー・ジェイムス、ウディー・ハーマン、トミー・ドーシー、レス・ブラウン、ベニー・カーターなどのバンドが解散 まさにビッグ・バンドの終焉だった |
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1948 | ベイシーバンドから去るミュージシャンが絶えず ジョー・ジョーンズ、ウォルター・ペイジ、スヌーキー・ヤング、ガス・ジョンソン、ワーデル・グレイも去った |
1950 | 1月8日 ベイシーはバンドを解散して、新たにセプテット(七重奏団)を編成 驚くことにFGがギタリストとして採用されていなかった |
ベイシーの新しいエージェントがベイシー・セプテットをシカゴの「ブラス・レイル」に出演させた | |
ジミー・ラッシングがベイシーバンドを去り独自のグループを編成 | |
1月から5月までFGはレスター・ヤングのコンボでバードランドで演奏活動 | |
5月中旬 FGはベイシーがFGを再加入させたので驚いた | |
1952 | FGはチャーリー・パーカーと「ナイト・アンド・デイ」を録音 |
FGの作曲「アイ・ドント・ノー・イェット」をベイシー・バンドで録音 | |
あたらしく編成されたベイシー・バンドのアレンジャー達はベイシーとFGにとってチャレンジ的なものだった | |
FGの作品「ライト・オン」がベイシー・バンドで録音 | |
1954 | 3月12日からベイシー・バンドのヨーロッパ初公演が始まる |
FGがアービー・グリーンとの共演録音 | |
12月末にソニー・ペインとジョー・ウィリアムスがベイシー・バンドに参加 | |
1955 | FGがアル・コーンと「ナチュラル・リズム/ナチュラル・セブン」を録音 |
ジョー・ウィリアムスがベイシー・バンドで「エブリデイ・アイ・ハブ・ザ・ブルース」「オールライト・オーケイ・ユー・ウィン」「ザ・カムバック」を録音してバンドの評価が一層高まった | |
FGの作曲「コーナー・ポケット」にドン・ウォルフが歌詞を付して「アンティル・アイ・メット・ユー」となった | |
FGのアルバム「ミスター・リズム」がRCA VICTORで録音 | |
1956 | FGがビッグ・ジョー・ターナーと「ボス・オブ・ザ・ブルース」などを録音 |
9月1日から12日にかけてヨーロッパ大陸での公演へ | |
1957 | FGが英国のメロディ・メイカー誌で読者投票のギタリストに掲載される |
FGの妻バーニスが癌で死去 | |
4月1日から22日にかけて英国での初公演へ | |
1958 | FGがダウンビート誌で評論家賞を勝ちとる |
ベイシー・バンドが英国王室御用達で二回目の演奏活動へ | |
1960 | ベイシーバンドがフランク・シナトラと演奏旅行し録音 |
1961 | ジョー・ウィリアムスがベイシー・バンドを退団してソロ活動へ |
1963 | カウント・ベイシー楽団が日本で初公演 |
1966 | FGの代理母ナナ・アンナ・シモンズ・モズレイが心臓発作で死去 |
1970 | FGが演奏活動後乗車したタクシーの運転手からFGの曲「コーナー・ポケット」をマンハッタン・トランスファーのティム・ハウザーが録音するそうだと教えられる |
1975 | FGとハーブ・エリスがコンコード・レーベルで「リズム・ウィリー」録音 |
1976 | カウント・ベイシーが心臓発作で9月から3か月間入院状態に陥った |
1977 | FGの長男フレディー・グリーン・ジュニアが心臓発作で死去 |
1979 | ベイシー楽団のテーマ曲「ワン・オクロック・ジャンプ」がグラミー賞に輝く |
1980 | カウント・ベイシーは歩行困難になりゴーカートで演奏活動に |
1981 | FGはウェストバリー・ジャズ・ファン賞を授与される |
1982 | マンハッタン・トランスファーがFGとドン・ウォルフの共作「アンティル・アイ・メット・ユー」でグラミー賞を獲得 |
1983 | ザ・カウンツメンのヨーロッパ公演が10月23日から11月12日まで続く |
キャサリーン・ベイシーが心臓発作で4月11日自宅で死去 | |
1984 | 4月26日、カウント・ベイシーが癌で死去 |
4月30日、FGがバプティスト教会でベイシーの葬儀を執り行う | |
FGはキャブ・キャロウェー、サド・ジョーンズ、フランク・フォスター等の亡きあとの一時的にバンド・リーダーとなった 【FGがベイシー・バンドのリーダーとなった例を本表の下に掲載しておきます】 | |
5月23日、カウント・ベイシーの没後の大統領賞授与のため、FGがレーガン大統領と対面した | |
FGがカーネギー・ホールでのクール・ジャズ・フェスティバルへの出場でジョージ・ウェインと契約 | |
1985 | FGはスイス・ベルン等で開催の国際ジャズ・フェスティバルに「カウント・ベイシー卒業生」として出場 |
雑誌「ピープル誌」でカウント・ベイシー亡き後のレガシーを引き継ぐ「ギタリスト、フレディ・グリーン」として掲載される | |
FGがカンサスシティ・ジャズ・テリテージ賞を授与される | |
FGがカウント・ベイシーメモリアル賞を授与される | |
FGがクリスマスの数日前にニューヨークのガソリン・スタンドで強盗に遭い暴行を受けた | |
1986 | FGが日本で体調が悪くなって慈恵大学病院で治療を受ける |
FGが、レイ・ブラウン、ジョン・クレイトン、ジェフ・ハミルトン、ジェフ・クレイトンと「スーパー・バス」を録音 | |
FGが「スイング・リユニオン」のアルバムでグラミー賞にノミネートされる | |
1987 | FGが彼の息子(本書の著者)とロサンジェルスのホテルで面会 |
FGがグラミー賞歌手ダイアン・シューアとザ・カウント・ベイシー・オーケストラとの最期のレコーディング・セッション/ビデオを録画 | |
3月1日、フレディ・グリーン 「ミスター・リズム」 がラス・ベガスで脳内出血により死去 (享年75歳) | |
FGの葬儀は、3月6日マンハッタンのセント・ピーターズ・ルーテル教会で執り行われた |
Alfred Green氏の「RHYTHM IS My BEAT」から一部引用させていただきました。(2023)
写真左から:ジーン・クルーパ、フレディ・グリーン、ジョニー・ホッジス、レスター・ヤング、ベニー・グッドマン、ハリー・ジェイムス、ハリー・カーネイ
(ソロ・オーダー) レスター・ヤング → カウント・ベイシー → バック・クレイトン → ジョニー・ホッジス → ウォルター・ペイジ → ハリー・カーネイ → ベニー・グッドマン → フレディ・グリーン(コードソロ 11:44 辺りから) → ハリー・ジェイムス
一部批評家から厳しい声が「ドラムはジョー・ジョーンズでないとダメだ。リズム専科のフレディ・グリーンにソロを回したグッドマンにはあきれた」などなど。
リーダーのサド・ジョーンズが病気のため一夜限りのリーダーとなったフレディ・グリーンが、曲名を「シャイニー・ストッキングス」と紹介した後「ごめん、ホーセズ・フラットね」と訂正。正式の曲名は「Blues in Hoss' Flat」(Ebのブルース)です。