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メインストリーム・ジャズ論MAINSTREAM JAZZ

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メインストリーム・ジャズ論 序説

1940年代 スウィング時代の終焉

1930年代から続いたスウィング時代(Swing Era)も、第二次世界大戦が終結した1945〜46年ごろになると急速に人気が衰えてしまいました。その結果、ビッグ・バンドのサイドメンたちは、(1)自分の今までのスタイルを捨ててビバップを学ぶか、(2)陳腐なディキシーランドを演奏するか、という二者択一の選択しかできない苦境に陥ってしまいました。ジャズの変革スピードがスウィング・スタイルの演奏者たちを追い越してしまったような感じでした。

一部には自分のアイデンティティに苦しむミュージシャンもいました。たとえばトランペット奏者のロイ・エルドリッジは、当時最も進歩的なミュージシャンだと自負していたのですが、彼の追随者であったはずのディジー・ガレスピーに追い越されてしまったのです。ディジーと比較して10年も時代遅れに聴こえるようになってしまったのでした。

エルドリッジは、1950年のベニー・グッドマンのフランス公演に同行したところ、ヨーロッパの聴衆からは高くて正当な評価を受けることができました。そこで彼は自信を取り戻すことができたのですが、「最もモダンなミュージシャンであることよりも、自分に忠実であり、自分のスタイルをしっかりと守っていくことが大切だ」ということに気が付いたのでした。

1950年代 メインストリーム・ジャズの興隆

1950年代半ば、評論家のスタンレー・ダンスは、スウィングのベテランたちが演奏するビバップでもなければディキシーランドでもない音楽に対して、「メインストリーム(主流派)」(mainstream)と名づけました。主なミュージシャンは、往年のカウント・ベイシー楽団、デューク・エリントン楽団などに所属していたベテランと、一部の若手プレイヤーたちでした。

そもそも「メインストリーム」とは、スウィング・スタイルから「ビッグ・バンド」と「第二次世界大戦のノスタルジー」と「ポップスの要素」を差し引いたものということができます。したがって「メインストリーム」の発生起源を特定することは困難なことなのですが、一般的な定義づけをするとすれば、1930〜40年代のスモール・コンボが起源だといえるでしょう。

ミュージシャンとしては、テナー・サックスのコールマン・ホーキンス、レスター・ヤング、ベン・ウェブスター。トランペットではロイ・エルドリッジ、チャーリー・シェイバース、バック・クレイトン、ハリー・スウィーツ・エジソン。アルトサックスではベニー・カーターやジョニー・ホッジス。ビブラフォンのライオネル・ハンプトン。ピアニストではテディ・ウィルソンやカウント・ベイシー。ベースはウォルター・ペイジ、ドラムではジョー・ジョーンズやジーン・クルーパなどが挙げられます。幸いにも全員が1950年代にも元気で、彼らがそのままメインストリーム・ジャズ・ミュージシャンそのものだったのです。

ノーマン・グランツとJ.A.T.P.

もう一度時間軸を戻して、1944年にプロデューサーのノーマン・グランツが「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」というジャムセッションを立ち上げ、その後13年間に亘って、全米(後にヨーロッパまで)で巡業公演を行いました。そこでは、スウィングのトップミュージシャンやバップ・ソロイストがメディアムテンポのブルースや単純なコードチェンジの曲などでバトル対決をしたり、あるいはバラッド・メドレーで個々のミュージシャンをフィーチャーしたりという演出を施しました。

テナーとトランペットの激しいバトルやワンパターンな構成に対して、一部の批評家たちから非難を受けはしましたが、しかし、それは聴衆にとっては非常にエキサイティングなものでした。初期の市民権運動者でもあったグランツは、このようにバンドを組織して、経験豊かなミュージシャンに対して報酬を支払い、彼らの生活を支え続けたのでした。

ノーマン・グランツは、コンサートの模様を数多く録音し、またスター・プレーヤーたちをスタジオに招いて、「Norgran」「Clef」というレーベルで録音しました。これは後年「Verve」というレーベルに統一されましたが、ジャズがモダン・ジャズとトラッド・ジャズに二極化していた時代に、ノーマン・グランツがスタイルなどは気にせずに好みのジャズ・ミュージシャンたちの演奏を信念を持って録音し、それを後世に残したのです。

しかし、ノーマン・グランツの傘下に入れなかった数多くのスウィング・ミュージシャンたちは、1950年代の初めまではR&Bセッションのサイドメンやディキシーランド・バンドの間をさ迷い続けました。メインストリームの最も中心的な存在だったあのバック・クレイトン(tp)でさえ、ディキシーランド・バンドで生計を立てざるをえなかったのです。しかしその彼もまもなく、心あるジャズ愛好家たちの支援によりコロムビアで歴史的な「バック・クレイトン・ジャムセッション」第1回目の録音を果たすこととなりました。

ジョン・ハモンドとヴァンガード・シリーズ

それに続いて、スウィング・ジャズの正しい理解者だったプロデューサーのジョン・ハモンドが、バック・クレイトン(tp)、ヴィック・ディケンソン(tb)、ジミー・ラッシング(vo)、サー・チャールズ・トンプソン(p)、ルビー・ブラフ(co)など好みのジャズメンを集めて、ベイシー・オリエンテッドの演奏を録音しました。この「ヴァンガード・シリーズ」は全世界的な賞賛を得ることとなり、日本でも「中間派」と名付けられて一大センセーションを捲き起こしました。

一方、1950年代のウェスト・コースト・ジャズの人気の高まりで、カウント・ベイシーのリズム・セクションの軽快なスウィング感やレスター・ヤングのクールなテナーのサウンドが見直されるようになり、クールとスウィングの共演が多く行われました。バリトン・サックスのジェリー・マリガンがジョニー・ホッジスやベン・ウェブスターと共演するなど新しい組み合わせが注目されました。また、スウィングのベテランたちが若きリズムセクションと共演することもありました。例えば、コールマン・ホーキンスやロイ・エルドリッジが若くて多才なピアニスト、レイ・ブライアントとクインテットを組んで演奏しました。このように1950年代はメインストリーム・ジャズが華麗に花咲いた時代でした。

1960年代 衰退

しかし1960年代に入って、メインストリーム・ジャズは急速に生気を失っていきました。スウィング時代のベテランたちも高齢となり、ミュージシャンも数少なくなってしまいました。それに加えてロックが聴衆を奪い取り、アヴァンギャルド(前衛派)が前面に出てきて、ハードバップやソウル・ジャズがジャズの新しい流れになってしまいました。このような環境の変化でノーマン・グランツは「Verve」を売却してしまいました。60年代の後期にはフュージョンが流行してきて、メインストリーム・ジャズはその創始者たちとともに死に絶えようとしました。

1970年代 復興

ところが1970年代の半ばになって、メインストリーム・ジャズのカムバックが徐々に始まります。ボブ・ウィルバーとケニー・ダヴァーンの共同作品「ソプラノ・サミット」やルビー・ブラフ&ジョージ・バーンズ・カルテットなどの演奏が高い人気を得て、メインストリーム・ジャズは生き続けることになりました。テナー・サックスのスコット・ハミルトンやコルネットのワーレン・ヴァシェなどの20歳代前半の有能なミュージシャンたちも、この世代としてはめずらしくメインストリームを演奏し始めました。そして彼らの秀でた才能に他の若いミュージシャンが強い影響を受けるようになりました。

ハンク・オニールの主宰する「Chiaroscuro」(キアロスクーロ)レーベルが1970年代のメインストリーム・ジャズ復興に大きく寄与しました。また、ノーマン・グランツの新しいレーベル「Pablo」が数多くのミュージシャンを擁して復帰してきました。カール・ジェファーソンはメインストリーム・ジャズに最重点を置いた「Concord」を興しました。

1980〜90年代 力強いムーブメント

1980年代になって、ダン・バレット(tb)、ハワード・アルデン(g)、ケン・ペプロウスキ(ts、cl)などの若手のミュージシャンがデイヴ・マッケナ(p)やディック・ハイマン(p)などのベテランたちと共演して「モダン・スウィング」(Modern Swing)という力強いムーブメントを起こしました。ノーマン・グランツがリタイアした「Pablo」は勢いを失いましたが、一時活動を停止していた「Chiaroscuro」が再復活し、伝統を守る「Concord」は多忙を極めました。更にヨーロッパの「Nagel Heyer」などの新しいレーベル、フロリダの「Arbors」レーベルも加わってきました。

現在 ジャズの主流として

そして現在。メインストリーム・ジャズは、時としてディキシーランドやバップとオーバーラップしながらも極めて健全な状態で数多くのジャズ・ファンに支持されています。数々のレコードが発売され、バッキー・ピザレリ(g)などの大御所たちが若手のプレーヤーと交じり合ってジャズ・パーティやジャズ・フェスティバルやナイト・クラブなどで演奏活動を続けています。彼らは、新境地を開こうとか、ベストセラーを狙おうなどという雑念にとらわれず、「スウィングの伝統」(Swing Tradition)の中で創造的な演奏を続けているのです。

ということで、世界にも稀なメインストリーム・ジャズ講座の開講です。 (2004)

(AMG Scott Yanow氏の論文から引用させていただきました)

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